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上天草と天草四郎のつながり

上天草は自由と平和を夢見た、歴史の舞台。

天草四郎銅像 時は1612年、徳川秀忠の時代。
キリスト教の禁教令がしかれました。当時天草は、関ヶ原の戦いに敗れたキリシタン大名・小西行長に代わり、唐津領主・寺沢広高が治めていましたが、人々は実際の石高の2倍にあたる思い年貢に苦しめられていました。そこに、この禁教令。ママコフ神父は、信仰を禁止された天草の民に向かって「25年後、16歳の天童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう。」との預言を残し、マカオに追放されたと伝えられています。

 さらに、追い討ちをかけるかのような大凶作にみまわれ、天草の人々は、信仰の禁止と厳しい年貢の取り立てにますます追いつめられていきました。

 そして1637年、ママコス神父の予言通り、天童・天草四郎が現れました。
口之津(長崎県口之津町)で年貢が納められなかった家の妊婦が、寒中の川にさらされ殺される残虐な事件を機に、民衆の怒りは爆発。四郎を総大将にまず島原で火の粉が上がり、続いて大矢野町へ。
一揆群は大島子(天草市)の戦い、町山口川(天草市)の戦いで勝利を収め、勢いに乗って富岡城(苓北町)を攻めますが、難攻不落、富岡城陥落をあきらめ、次は海を渡って原城(長崎県島原市)へ向かったものの、3ヶ月間の籠城の末、大勢の幕府軍に敗れてしまいました。クロスのもと、自由と平和の国”パライゾ”を夢見ながら・・・。

 そんな歴史を証言するためにあるのが、「天草四郎メモリアルホール」。天草・島原の戦いの発端や、天草四郎の人柄、南蛮文化などを詳しく展示。その地の息遣いを感じながら、歴史を再確認する、壮大なロマンを感じてみてはいかがでしょうか?

天草四郎陣中旗

天草四郎陣中旗は天草四郎が島原の乱で使用したとされている国の重要文化財。<天草切支丹館所蔵>

南蛮屏風図

南蛮屏風図/日本での貿易品荷揚げ、カピタン(商館長)の行列と出迎える宣教師たちを描く。鮮やかな色彩と細部に渡る入念な描写は、70点ほど現在する南蛮屏風の中でも最も優れた遺品と言える。天草メモリアルホール(レプリカ)

妖術使い 森宗意軒

 天草・島原の戦いにおいて、天草四 郎率いる一揆の参謀者の一人とされ、江戸初期の兵学者・由井正雪の妖術の師ともいわれる。故・山田風太郎氏の小説「魔界転生」にも妖術師として登場。地元(大矢野町中柳地区)では「もりすけさん」の愛称で親しまれ、宗意軒に祈ったら歯痛が治ったなどの宗意軒の”霊験”を伝える逸話も多い。森宗意軒神社も造られている。

天草四郎は上天草市出身!

 3万7千人の民衆を率いて幕府に挑んだ天草四郎は、謎とロマンに満ちた伝説上の人物のようにも思われていますが、実在の人物です。上天草市出身の小西家の浪人、益田甚兵衛と同市出身のマルタ(洗礼名)の間に生まれた男児で、名は益田四郎時貞。つまり、上天草市は天草四郎の故郷なのです。

天草四郎とはどんな人?

 天草四郎は益田甚兵衛の長男として生まれ、本名は益田四郎といいます。長崎に渡り学問をしたことなどが知られています。
上津浦の南蛮寺にいたママコス神父が、「今から25年後、東西の雲が赤く焼け、5国中が鳴動するとき、一人の神童が現れて、人々を救うであろう」と予言を残して去ったという話がありました。人々の不安の中で、四郎こそが予言にある天の使者に違いないという噂が広まり、天草だけでなく島原一帯にも広まっていきました。そして、ついには一揆勢の総大将に担ぎ出されました。総大将とは言うもののシンボル的な存在であり、実際に指揮を執ったのは、父甚兵衛をはじめとする側近たちであったと言われています。原城に籠もった四郎は、歯にお歯黒をし、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着た呪術的な格好で、洗礼を授けたり、説教を行っていたと記録されています。

天草四郎のゆかりの地

湯島 (談合島)

島原と大矢野の間にある湯島では、ひそかに島原と天草の一揆勢の幹部が談合し、武器の製造も行われました。その談合によって天草四郎は天草と島原の両方を代表した総大将に担ぎ出されました。このような談合の舞台となったことから、湯島は別名談合島とも呼ばれます。
湯島 (談合島)
上天草温泉郷




上天草 温泉郷